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福島ショック・ドクトリン

Posted by vickywallst on 26.2011 政治・社会   0 comments   0 trackback
前回アップしたあの福島原発の”エンジェル・リング”を見た瞬間
しまった!!! ”ショック・ドクトリンだ!!!”
そう思った。

ここで一体何をやっているのか?
本当に気になってしかたない。
エンジェルリング 降臨!


怖さとショックの暴走で、4ヶ月もの間、どっぷりと”思う壷”にハマリ込んでしまった。

”情報”に敏感でなきゃならない仕事でもなく、ディベートする事もほとんどなく
世の中の流れの先を知る必要もない中で、ただ慌ただしいタイムラインの中にいると。。。
”木を見て森を見ず”の状態になってしまうのだと、つくづく。。。。。
”普通で穏やかで当たり前な毎日”を望んで飛び込んだワケではあるけれど
何もそんな時に大事件が起こらなくても。。。。。

けれど、今回の事は、相当”手が込んでいて”専門家の意見でさえ真っ二つ!
。。。リーマンの時も専門家も新聞もTVも相当遅かったから。。。。まぁ、一緒かっ。。。。??

”見えない放射能”には、自動的に恐怖のレバレッジがかかり、更に
”地震”や”爆発””放射能漏れ”という未曾有の”実弾”と情報の嵐があれば、
そこに、あの手この手の”情報”を紛れ込ませると操作情報はしやすくなる。。。
この”ショック・ドクトリン”の先には、何があるのか???
そんなこんなのドタバタ騒ぎをしている内に、8月2日が目前に迫ってきた。

考える時間のナイ事が最大のストレスになっているけれど
今日の昼間も長~いケム!!!
0725 1

0725 2

一体”誰の許可を得て”何をまいてるのか??
この中に、ヨウ素やセシウムを混ぜる事が可能かどうか、謎だけれど
謎と言えば、なぜかしら、柏市や流山市がホットスポットになっている。
いびつなホットスポット。

国内初”脱・原発のモデル都市”として、
”低炭素社会を実証する田園都市つくば”や ”次世代環境想造都市”として注目を集めた 「柏の葉キャンパスシティ」
2014年春の完成を目前に「被爆都市」となってしまったのには、理由があるのか、ないのか???
国内最大級の環境型都市、14年春に中核完成 千葉・柏

なんだか”へんだな”と思う事は、山の様にある!!!
でも。。。。。何もできないのがハガユイ限り。。。。。

なんて思っていると、こんな映像や記事が。。。。。

複雑な心境。。。。。

S.O.S. From Fukushima English translation
http://youtu.be/hFWI1z_i1IQ


そして今朝の毎日新聞 (2011年7月25日 東京朝刊)
検証・大震災:福島第1原発事故、収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く

=転載開始=

検証・大震災:福島第1原発事故、収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く
 かつてない事故の収束に向け苦闘が続く東京電力福島第1原発。労働現場で何が起き、作業員は日々どんな思いで臨んでいるのか。

 ◆3・12~15 連続爆発
 ◇俺たちに、ここで死ねっていうことか

 大地震発生翌日の3月12日午前3時過ぎ。「圧力上昇を続ける1号機の原子炉格納容器から、放射性物質を含んだ水蒸気を放出する」と政府は発表した。50代の東電男性社員はそのことを伝える非常用ラジオのニュースに聴き入った。構内には屋内退避の指示が出されていた。

 「屋内にいるだけで大丈夫なのか。放射線を浴びるとこのまま隔離されるんじゃないか」。一刻も早く逃げたかった。

 菅直人首相が視察のため作業拠点の「免震重要棟」に現れたのは、その日の朝。原発の「頭脳」に当たる中央制御室にいた若手社員(21)は、同僚たちが首相に「何やってんだ。何とかしろ」と怒鳴り散らされたと聞いた。「俺たちに、ここで死ねっていうことか」

 午後3時36分、1号機で最初の水素爆発。協力会社の放射線管理員、松木清隆さん(56)は福島県双葉町の自宅近くにいた。遠くのモニタリングポストから順に警報音が鳴り出し、近づいてくる。すぐそばにあった幅3メートル、高さ2・5メートルほどのモニタリングポストは計測能力を超えたのか、線量ではなく「測定器確認中」と表示された。

 「ああ、フォールアウトした(放射性物質が飛散した)な……」。ふと思った。「双葉は二度と住めない町になるかもしれない」

 2日後の14日午前。3号機と2号機の間にある路上で、作業員数人はケーブル類の点検を終え、車に乗り込もうとしていた。午前11時1分、3号機の爆発。コンクリートの塊が降り、目の前の車2、3台が大破した。「もう少し早く車に乗っていたら俺たちは死んでいた」

 その時、陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊隊長、岩熊真司1等陸佐(49)も3号機の冷却水を補給するため部下5人と建屋近くに車を止めていた。とっさに身を伏せたが、がれきが窓や天井を突き破り、防護服が破れた1人は足に傷を負った。

 「歩けるか。急いで離れるぞ」。正門に向かう途中、10人ほどの作業員が集まってきた。歩くのがやっとの人もいる。近くにあったトラックの荷台にけが人を乗せ脱出した。

 悪化するばかりの状況の中、中央制御室の当直員らを除き、協力会社の作業員らを退避させる準備が始まった。官邸にいた細野豪志首相補佐官(現原発事故担当相)からの電話に、現場責任者の吉田昌郎所長(56)は「まだ頑張れる」と答えた。

 連続爆発に加え、東電の撤退情報が流れて騒然とする首相官邸。15日未明、菅首相は東京・内幸町の東電本店に乗り込む直前、側近らにつぶやいた。「俺は60歳を過ぎた。がんになってもいい年だ。いざとなったら俺が先頭に立って福島で陣頭指揮をとればいい」

 ◆3・14~15 放射線量上限「超緊急」引き上げ
7月25日毎日新聞1
福島第1原発4号機の使用済み燃料プールへの注水作業=2011年3月22日撮影、東京電力提供

◇労働者は使い捨ての機械ではない

 そのころ東京・霞が関では、緊急作業時の被ばく線量の上限値(当時100ミリシーベルト)引き上げを巡り、関係法令を所管する経済産業省原子力安全・保安院と厚生労働省の間で激しいやりとりがあった。

 14日午後、厚労省の金子順一労働基準局長に官邸から電話が入った。

 「福島第1原発の状況が厳しい。今の緊急作業の現場からすると、100ミリシーベルトでは(作業が)難しいという話がある。関係省庁で話をして急いで結論を出してほしい」。加えて「国際放射線防護委員会(ICRP)の国際基準では、緊急作業の場合には条件付きながら500ミリシーベルトまでは許容される」とも伝えられた。

 事故収束を優先させたい原子力安全・保安院に対し、厚労省の高崎真一計画課長は「労働者は使い捨ての機械ではない。死にに行け、とは言えない」との思いで臨んだ。そのさなか、金子局長の元へ1人の女性課長が訪れ、こう報告した。「小さな子を抱えた人たちが東京駅から西の方へ続々と出発しています」。事故対応は急を要していた。

 医師でもある厚労省の鈴木幸雄労働衛生課長が文献を調べると、年間100ミリシーベルトを超えると慢性的影響は否定できないが、250ミリシーベルトまでなら急性症状の報告はなかった。

 金子局長は大臣室に何度も出入りし苦悩した。「こんな形で基準を見直していいのか。しかし原発への対応を誤れば……」。35年間、労働行政に携わってきた官僚として、あまりに厳しい判断を迫られた。

 最後は細川律夫厚労相が250ミリシーベルトへの上限値引き上げを決断した。「長期的な話ではなく、この日をどう乗り切るか、だ」

 実際に引き上げるには、文部科学省の放射線審議会の審議を経なければならない。「一分一秒を争う超緊急事態」。文科省はそう判断したが、全国に散らばる委員を急には集められない。審議が遅れれば、法令違反で作業員を現場に送れず、圧力容器や格納容器が爆発するかもしれない。

 文科省は20人の委員のうち15人に、電子メールを見られる状態で待機するよう依頼する。経産省と厚労省からそれぞれ公印付きの諮問が出されたのは、午後11時14分と53分。それを委員へ一斉メールで流し、各委員が意見を全員に返信する方法で「審議」した。審議会が上限値引き上げを認める答申をしたのは翌15日午前3時ごろのことだった。

 答申の日付は会長判断で14日に、官報掲載も15日だったが施行は14日とされた。高い放射線量の下での作業が既に始まっていたからだ。必要だった人事院規則の改正は「すっかり忘れ」(保安院幹部)、16日にずれ込んだ。副厚労相2人への報告は後日で、労使調整の場である労働政策審議会へも事後報告。異例ずくめの規則改正だった。

 金子局長は当時の判断をこう振り返る。「評価は甘んじて受ける」

 ◆3・15~ 注水・外部電源引き込み
 ◇ターミネーターの世界だ

 15日朝、2号機と4号機でも爆発が起きた。それでも消火用ポンプ車を使って原子炉内へ海水を注入する必死の冷却作業で最悪の事態は免れていた。

 カギとなる電気の復旧を最優先するため、東電は東京の本店や新潟の柏崎刈羽原発から応援を投入し、16日は約180人、17日には300人余と人員を増やした。東電の中堅社員もそんな一人だ。

 「何とかがんばってくれ」。清水正孝社長(当時)から訓示を受け、着の身着のまま同僚数人とともにワンボックスカーに乗った。家族には心配をかけるだけと報告しなかったが、友人には頼んだ。「2週間たって帰ってこなかったら家族に連絡してくれ」

 次の日の朝、前線基地となっている福島県楢葉町のナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」に到着。現場の線量が高いため1日待機し、翌朝、全面マスクにゴム手袋、長靴、白い布製の防護服姿で現場に車で向かった。最も線量の高い3、4号機付近は猛スピードで走り抜けた。

 構内に着くと、津波で運ばれた車が原子炉建屋の外壁に突き刺さり、サメも打ち上げられている。「空爆でもされた」光景に映った。白装束の自分たちがマスクの「シューッ、シューッ」という音を響かせながら作業していることに現実味がない。まるで未来の終末を描いたSF映画「ターミネーター」のようだと感じた。

 その日は電源復旧のケーブルを夕方までにつなぐ予定だった。ところが途中で「2時間前倒しで終わらせろ」と指令が出た。その時刻から自衛隊が放水を行う、と政府が発表するためと聞かされた。

 「いいかげんにしろ」。現場には不満が渦巻いた。だが、放水時には周囲に人がいないか確かめてはくれない。水は放射性物質で汚染されているかもしれない。無我夢中で予定の作業を終わらせ、すぐに現場を離れると、自衛隊の車両とすれ違った。ぎりぎりのタイミングだった。

 線量計は作業チームに1台しかなく、マスクは何度もずれた。同僚は「多分(放射性物質を)かなり吸っているんじゃないか」と心配した。

 本来は電設担当でもない。それでも思った。「他にやる人間がいない。とにかくやらないといけない」

 ◆3・20~22 電源復旧
7月25日毎日新聞2
防護服を着る作業員=2011年5月6日撮影、東京電力提供

 ◇家族の写真さえ持ち込めない

 20日午後3時46分、大震災後初めて、ようやく2号機に外部電源が接続された。だが、肝心の中央制御室に電気が届くには、まだ時間が必要だった。

 原発から北に約20キロの福島県南相馬市に住む東電の男性社員(35)は中央制御室の計器読み取りを担当した。

 電源復旧にあたり、原子炉に変化がないことを確認する。小型発電機で小さな明かりをともし、4、5人ずつのクルーでシフトを組んで4、5時間に1度、薄暗い中で懐中電灯を手に、圧力や水位など約15の計器類の数値を30分ほどで書き取る。計器の電源は自分たちの車のバッテリーだ。

 中央制御室は厚さ約50センチのコンクリートで覆われているため線量は高くないが、事故後、放射線管理区域の中では最高レベルの防備が必要な場所になっていた。「恐怖はあるが、通常やっている操作。そこは落ち着いてできる」

 ただし、作業拠点となる構内の免震重要棟はすし詰め状態で、ベッドはない。床に雑魚寝か、段ボールを敷いて寝た。通電作業に当たる作業員の中には2時間程度しか睡眠をとれない者もいた。食事は乾パンと、水で戻すアルファ米。避難先にいる家族との連絡手段もない。「家族の写真さえ持ち込めない。汚染されてしまうから」

 同県浪江町出身で下請け会社の男性作業員(47)は事故後、ある変化を感じていた。下請けはそれまで東電を「お客さん」と呼び、距離を置いていた。所長が巡回する時はお供の社員が付いてきて「大名行列」のように見えた。20代の東電社員は年配の作業員にも敬語を使わないし、作業も下請け任せ。ところが、ケーブルを引く作業をしていると、東電社員が「手伝います」と言う。

 「こっちがびっくりしたよ」。東電社内には「直営班」と呼ばれる作業班が作られ、社員も現場に出た。協力会社の作業員と一緒に汗を流し、同じように休息をとった。免震重要棟の喫煙所には「ご自由に」と書かれた段ボールに吉田所長が差し入れたたばこが10箱以上置かれた。現場に一体感が生まれ始めた。

 22日午後10時43分、3号機にいた作業員から免震重要棟に電話連絡があった。「中央制御室に通電」。その瞬間、拍手がわき起こり、「明かりがついたぞ」と歓声を上げる作業員もいた。復旧作業は大きな山を一つ越えた。
7月25日毎日新聞3
照明が点灯した東京電力福島第1原発2号機の中央制御室=2011年3月26日6時半ごろ、東京電力提供

しかし、それは現場の過酷な労働の上に成り立っていた。

 ◆3・24 3人被ばく
 ◇彼らは普段、あんな仕事はしてない

 3人が被ばくする事故は起こるべくして起きた。

 24日午前10時半。協力会社の関電工(東京都港区)の社員2人と恒栄電設(北区)の社員が、3号機のタービン建屋地下で非常用冷却系ポンプのモーターに電気を送るためのケーブルを制御盤に差し込む作業を始めた。建屋内には深さ約15センチの水がたまっていたが、暗くて気づくのが遅れ、短靴のまま足を突っ込んだ。173~180ミリシーベルトの被ばくだった。

 関電工の2人を知る作業員は明かす。「彼らは普段、あんな仕事はしてない。研修でやっているかもしれないが、あの非常時にできるレベルではない。現場の人数が足りず、専門外の仕事をさせていた」

 事故直後、3人は防護服姿のまま免震重要棟に飛び込んだ。室内が放射性物質に汚染された可能性があるため、「局所排風機」で空気を除染した。ほかの作業員には「その辺で横になるな」と指示が出た。髪も汚染されてしまうかもしれないからだった。

 3人はその後、会社の事務所や火力発電所での勤務に転じている。

 別のベテラン作業員(64)によれば、事故以来、現場に不慣れな東電の社員まで作業をやらされるようになった。「危ないところは下請けにやらせるな、ということらしい。でも、普段やってない人に任せるのは、かえって危ないんだよ。一番かわいそうなのは東電社員かもしれねえな」

 ◆4・9 経産相、視察は40分
 ◇乾パン、食べてみろ

 労働環境が一向に改善されない中、海江田万里経産相が4月9日、第1原発視察に訪れた。免震重要棟で作業員を激励し、雨の中、バスから1~4号機を見て回った。滞在時間約40分。下請け会社の工事課長で福島県富岡町出身の男性(41)は怒りを押し殺した。

 「何で現場をきちんと見ないのか。視察に来たら、同じ装備で動いてみろ。味のしない乾パンをぼりぼり食べてみろ」

 自宅は津波に流され、避難先には妻と4歳、1歳の息子がいる。自身が宿泊するいわき市の宿は、同じように家族を残した作業員ら約150人で満杯だ。怖さもあるが、生まれ育った町だ。「地元だし、19歳からこの仕事だし。行かなきゃどうにもなんねえだろう」。そんな気持ちで作業に臨んでいる。

 仕事はタービン建屋の汚染水を移送するホースの設置。全面マスクに軍手を2枚重ね、さらにゴム手袋を2枚。防護服は熱がこもり、まるでサウナスーツだ。マスクの曇りで視界は悪く、恐怖心からか動悸(どうき)もする。一緒に作業する東電社員は「この装備じゃ夏は無理だね」と嘆く。

 「安全神話」には裏切られた思いだが、地元の発展は原発のおかげだとも思う。復旧に汗をかく東電社員の姿も見ている。「東電を責めることはできない」。怒りの矛先は政府に向く。

 「国民のために覚悟を、と菅首相は言ったようだが、作業員だって国民。みんな被災者なんですよ。だけど、国はうちらを国民と思っていないですよ、絶対に」

 4月末までに、自分の周囲にいた100人のうち4割が辞めた。

 ◆4・17 最初の工程表発表
 ◇終わらなかったら? それでも排水する

 原発の安定した冷却機能回復に向け電源復旧という大きな前進がある一方、汚染水問題などトラブルは間欠泉のように噴き出した。

 「一刻も早く事故収束への工程表を作成すべきだ」。放射性物質放出封印策の立案を委ねられた馬淵澄夫首相補佐官が3月26日の就任直後に細野補佐官に直言し、作業が始まった。だが、4月17日に発表された最初の工程表では、作業員への配慮はなかった。

 「これは東電が決めた工程表だ」。この日午前の政府・東電統合本部の関連会合で細野補佐官は強調した。工程表は、馬淵補佐官が強く求めた地下水の汚染拡大防止にも触れておらず、馬淵補佐官は隣の細野補佐官に「俺は何も聞いていない。どうなってんだ」と怒りをぶつけた。

 政府部内でも調整されないまま発表された工程表だったが、収束時期は「原発の冷温停止まで最短で6~9カ月」と記されていた。

 翌18日、Jヴィレッジで、建設業の男性(28)は取材に「明日は朝4時起きだ。いつもより全然早い」と話した。

 従業員数人の小さな建設会社をいわき市で営み、ずっと福島第1原発で働いてきた。家族を避難させ、4月はじめに現場へ戻った。建屋の補修や溶接を担当する。「東電が決めたらその工程で行く。寝ずに作業する人もいるんだ」

 2号機のトンネルにたまった高濃度の汚染水処理もそうだった。東電社員から「菅首相に、3日で終えろと言われた」と聞かされた。排水路の穴をふさぐ作業に従事した。工程表公表に合わせて17日午後1時に排水開始の予定だったが、「かなり無理な作業」だった。元請けに「(予定通り)終わらなかったらどうしますか」と聞くと、「それでも流す」と告げられた。

 原発が立地する大熊町でプラント保守の協力会社を営む50代の社長は工程表の発表をテレビニュースで聞き、こう思った。「1年で収束できれば早いほうだ。それより社員の補償を何とかしてくれ」

 当初から現場に入った社員2人の線量は100ミリシーベルト前後。緊急時の上限として引き上げられた250ミリシーベルトには達していないが、「5年間で100ミリシーベルト」という平常時の数値に達する。「会社がつぶれるまで面倒を見る」と覚悟しているが、100ミリシーベルトを超えれば他の原発では今後5年間働けない。

 事故収束への道筋は、はっきりとは見えず、今後、作業員が足りなくなる恐れもある。「本当は『原発職人』は全国にたくさんいるはずなんですよ。でも会社が出さない。福島で働くと他で仕事ができなくなるからだ。だから、福島で働いた後の救済策を早く決めてもらわないと」

 ◆5・14 60歳作業員急死
 ◇夏は続出するんじゃ…?

 5月14日朝、免震重要棟はいつになく騒然としていた。「作業員が倒れ、心肺停止らしい」。事故以来、原発の半径20キロ圏内は避難地域で、いわき市まで行かないと病院はない。「もう無理だろうな」。同僚たちがささやき合った。

 作業員の大角信勝さん(当時60歳)。同市の病院に運ばれたが、午前9時33分、死亡が確認された。心筋梗塞(こうそく)とみられる。

 大角さんは全国各地の繁忙期の原発や建設現場を転々とする仕事で、業界では「スポット派遣」と呼ばれる。青森県六ケ所村の原子力関連施設、福島県内の火力発電所……。タイ国籍の妻(53)と02年に結婚してからも、静岡県御前崎市の浜岡原発などで働いた。福島第1原発には、元請けの東芝からみて4次下請けにあたる建設会社の臨時雇いとして11日に出発した。

 「お父さん(信勝さん)、そこは暑いところ」

 「心配するな。給料も上がるから」

 妻は「貧乏でも、危ないところへは行かないでと引き留めればよかった」と悔やむ。

 下請けの機器メンテナンス会社の男性社員(34)は亡くなる前日の13日、同じ現場にいた。自分は汚染水を浄化する機械を設置し、大角さんはその機械の配管工。「夏になればこんな事故が続出するんじゃないか」。不安が募った。

 工程表に作業員の環境改善が盛り込まれたのは17日。対策はあまりに後手に回った。

 ◆5・17 7・19 新工程表
 ◇あれだけ装置あればどれかは働くだろう

 5月17日、汚染水を処理して原子炉注水に再利用する「循環注水冷却システム」の実現を優先させる新たな工程表が発表された。全国の原発を転々としてきた「原発職人」の30代の男性作業員は、各号機から汚染水が移送される集中廃棄物処理施設で、このシステムの配管をつなぐ作業に従事していた。

 「7月の予定が『6月中に稼働』と1カ月も前倒し。物がないのに工期を縮めてどうするんだ」。配管の調達が間に合わず、つなぐ金具もない。図面はあったが朝令暮改で度々作業が変更された。

 ようやく敷設を終え、初テストで水を流すと、夜になって現場から連絡が入った。「水が漏れてるぞー」。午前2時まで残業し、配管のつなぎ間違いを修正した。自分たちではなく、別の会社が担当した箇所だった。

 システムは「油分離装置(東芝)→セシウム吸着装置(米キュリオン)→除去装置(仏アレバ)」を経て淡水化装置に至る。もともとはアレバ社が仏政府と足並みをそろえてシステム全体を売り込んだが、トラブルが続き、キュリオンと東芝が続々と加わる「混成チーム」となっていた。

 6月27日午後4時20分、システムは何とか稼働し始めた。会見した細野首相補佐官は「汚染水の処理と冷却機能の安定化の達成に大きな一歩になった」と胸を張る。だが、その直後に配管の継ぎ手で漏水が発見され、循環は停止。その後もトラブルは続く。

 仏米の装置の度重なるトラブルを受け、7月14日には東芝が吸着剤を格納した浄化用の新装置をシステムに組み込むと発表。結局のところ日本の東芝が全面的に乗り出さざるを得なくなった。日本の原子炉メーカー幹部は皮肉交じりに漏らした。「(仏米装置は)うまくいっていないが、あれだけ多くの装置を並べれば、どれかは働くだろう」

 それでも19日、原発事故担当相となった細野氏は工程表のステップ1の目標達成を宣言。「さまざまな困難を乗り越えたのは現場の作業員の奮闘があったからだ」とたたえ、新たな工程表を発表した。

 しかしその工程表も、緊急作業時の上限値250ミリシーベルトを元の100ミリシーベルトに下げる見直しには一切触れていない。

=転載終了=

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こういうのを見ると。。。。。
複雑な心境・・・・・





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